02
 話は少し遡る。
 それは四か月前。
 初めてあの子に出会った日のこと。
 だから言うなればこれは、出会いの章だ。
「なんか今日、転校生くるんだって」
 隣の席の遠山千雪が唐突に言った。
「転校生?」
「うん」
「こんな時期に?」
「そう。こんな時期に」
 一学期も終わりかけの、七月。あと数日で夏休みに入る、という時期になってのその話に、僕は顔を上げた。
 千雪のほうを見る。
 千雪は中学までは黒髪おさげに眼鏡という、もう、まったく男子を意識していないとしか思えない格好だったのだが、僕がリストカット好きな女の子と付き合ったのと同時に恋愛に興味を持ったのか、眼鏡を外した。それから主婦と付き合ったときに、髪をミディアムにして、高校デビューと同時に、ほんの少しだけ色を入れた。
 だからといって千雪が誰かと付き合ったという話は聞かないが、愛想がいいので男子たちの間ではけっこうな人気があるらしい。サッカー部の連中が何人も競うように千雪に告白した、という話も聞いたことがある。だが、見ている限り彼女には浮いた話一つなくて。
「なぁ千雪」
「なに?」
「彼氏作らないの?」
「余計なお世話です」
「もう高二の夏休み直前なんだけど」
「だから余計なお世話だって言ってるでしょう」
「相手いないなら、僕がなろうか? いま僕フリーだし」
 すると千雪の黒目がちな目が驚いたように大きく開く。こちらを見る。それからすぐに笑う。
「ほんとに私のことが好きならいいよ?」
「へ?」
「だって流韻、好きじゃない子と平気で付き合うじゃん」
「あー」
「ほれほれ、私のどこが好きか言ってみなさいよ。その返答によったら、考えてあげなくもないよ?」
 目の前で両手を広げ、さあさあどうなのよとばかりに問いかけてくる千雪に、僕は答えた。
「あー、うん。そうだな。セーラー服着てるとことか、かわいいと思う」
「ばーか」
「本気よ?」
「だから、ばーか」
 そう言いながら、千雪は自分が着ているセーラー服を見下ろす。宮阪附属高校のセーラー服は、このあたりの学校の中ではかわいいと評判だった。ブラウスの部分が薄くぴんくがかっているのだ。そして僕もつられて、千雪の胸の部分を見る。それなりに膨らんだ胸を見る。すると視線に千雪が気づく。
「えっち」
「高二だし」
「あ、開きなおるの?」
「健全でしょう?」
「体目当てな男とは絶対付き合ってあげないもんねー」
 千雪が舌をべーっとだす。けっこうかわいい。
 僕はそのべーっと出された舌をぼんやり見ながら、体目当てじゃない高二男子なんているのかなぁ? なんて、ちょっと思う。もちろんそういうコトに至るまでにはそれなりに恋や愛みたいな感情はあるだろうけれど、その中に、体をまるで意識しないなんてことがあるんだろうか、と思う。
 もしくはそいつは、賢者タイム中とか?
「ははっ」
「え、なんで突然笑ったの?」
「いや、いまものすごく哲学的な悟りの境地に達してさ」
「哲学的な悟りの境地?」
「うん」
「なにそれ?」
「え? あー、千雪賢者って知っ……いや、まあ説明すると長いからいいや。それより」
「途中で話やめるなー」
 不満そうに言う千雪を無視して、僕は話を戻した。
「それより、転校生は男なの?」
「え?」
「転校生がくるんでしょう?」
「あ、うん。そうだけど」
「男? 女? そのへんのところ、夏休み直前にまだフリーな男女にとったら、けっこう重要なところじゃないの?」
「あ、いまの私への告白は、そういう話の流れに繋がるのかぁ」
 少し寂しげな、がっかりしたような声で千雪が言う。なぜがっかりしたのかはわからない。体目当ての男とは付き合わないんじゃなかったのか?
 千雪が答えた。
「女だってさ」
「ほう」
「美人らしいよ?」
「へぇ」
「狙っちゃだめだよ?」
「僕、実は女には興味ないんだ」
「はーはーはー」
「賢者なんで」
「それ、だからなに?」
「家帰ったら、ネットで調べてみ」
「ふーん?」
 千雪は眉根を寄せて首を傾げ、ポケットから携帯を取り出し調べ始める。
 ちなみに賢者タイムというのは、主に男子が独りでコトに及び、終わったあとに、急に脱力して、冷静な気分になってしまうことを表す言葉だった。中学くらいのときだと、なぜか冷静になりすぎて、世界平和についてすら考えが及ぶことがあるのだが、それはさておき、まさか千雪がすぐに調べるとは思っていなかったので、僕は少しだけ戸惑う。
 千雪の顔はもう、真っ赤になっている。こちらをにらむ。拳を握る。
「女の子に、こんなこと調べさせるなぁ」
 肩を殴ってこようとするが、あっさり僕はそれを手で受け止める。千雪の手は小さい。身長も152センチくらいしかないし、体重も軽そうなのでまるで衝撃もない。胸はそこそこあるのにな、なんて思いながら、僕は千雪の柔らかい手を受け止め、ぎゅっと握る。すると千雪の顔がさらに真っ赤になる。
「な、な、なっ」
 教室中の視線が集まる。
 いまは六時限目が終わり、最後のHRが始まる前の、休み時間だった。放課後を目前にして、生徒たちの気が一番緩んでいる時間。おまけにいまは夏休み直前だ。なんというか、この夏休みを誰と過ごそうかな、なんてことをみんなが意識している時期。そんな中でおまえらなにじゃれてんだよ的な視線が一斉に集まってしまったので、僕は言った。
「みんなの御想像通りです」
「真顔で嘘つくなぁ〜!」
 千雪が怒鳴った。そのまま思いっきり僕の手を振りほどく。
 それに僕は傷付いたような顔を作って、言う。
「おまけにいま、フラれました」
 すると教室中が一斉に笑いだす。流韻っていっつもそうだよなとか言われる。かわいそうだから私が付き合ってあげるーだのと女子たちが言ってくる。僕はにっこり微笑んで、「体目当てでよかったらよろしくお願いします」と答えるとまた爆笑が起こる。
 それでその場はおさまったようだった。だから僕は改めて千雪のほうへと目を向けて言った。
「緊急回避成功」
 すると千雪はこちらを、やはり少し赤い顔で見ている。しかしなぜかその表情はどこか悲しげで。
「流韻。そんなことばっかりやってちゃ、だめだよ」
「ん?」
「流韻のことずっと見てるけど」
「へぇ〜。ずっと見てるの?」
「ちょっと、これ真剣な話」
 千雪が怒ったように言う。彼女は怒ると怖い。いや、怖いというより、しつこい。僕は話をそらすように顔をそむける。いつもの話が始まるからだ。
 しかし彼女はやはり、しつこい。
「流韻、女の子と真剣に付き合わなきゃだめだよ」
「彼氏いない奴に言われてもなぁ」
「流韻がそうなったのって、やっぱりお母さんのせいなんでしょう?」
「…………」
「でも、みんながみんな、お母さんと同じになったりはしないんだよ?」
 心配するような顔で、千雪はそう言う。
 彼女が言っているのは、僕の母親がどこぞの男と浮気して蒸発したあげくに、殺された事件のことを言っているのだ。母親に男が出来た経緯はこう。というか、殺された、という事件の部分をのぞけば、別にひどくありふれた話だった。
 家計費が足りないと母親はパートに出るようになり、そこで妙な男と知りあったせいで昼間から酒を飲むようになって育児放棄したあげく、蒸発。
 でもそんなのは僕が幼稚園のころの話で、状況を正確に覚えているわけでもない。父親は大変だったらしいが、その父親も親に──つまり僕の祖父母に僕を預けっぱなしにしていなくなってしまった。だから僕は、祖父母に育てられた。祖父母は僕を不憫な子と呼んでかわいがってくれたが、でも、両親のことをよく覚えていない僕が、どう不憫なのかはわからなかった。
 でも僕は不憫な子らしい。そして母親が殺された事件は町内ではそれなりに有名なので、こちらから話してもいないのに、みんなが知っている。千雪に言わせれば、僕が女の子とまともな態度で付き合えないのは、母親の一件があったから、ということになるらしい。なるほど。自分では気づいていなかったけど、もしかしたらそういうこともあるかもしれない。だから僕はもう一度千雪の少し膨らんだ胸のあたりを見て言った。
「なら千雪が、僕を慰めてくれる?」
「…………」
 真剣な話してるのに、と言わんばかりに、千雪はこちらを見つめてくる。彼女の黒目はやはり大きい。その瞳には、心配心配心配という言葉が浮かびあがっているかのようだ。そしてその、心配で溢れた瞳にじっと見つめられて、僕は困ったように肩をすくめる。
「千雪が思ってるような反応は返せないよ。僕は真剣な話は苦手なんだ」
「でも」
 それを遮って、僕は小さくため息をつく。千雪はとても敏感な子なので、その僕の様子に気づく。急にちょっと怯えたような顔になって、「あ、ごめん」と言う。
「なにが?」
「あの、私、立ち入った話、しちゃって」
「別に。千雪ならいいよ」
 すると千雪は一瞬嬉しそうに笑い、それからまたしゅんとした顔になって、「でもごめんね」と言った。彼女のこういうところが人気があるのだと思う。どうでもいい他人のことをこんなにも熱心に心配して、おまけにこんなかわいい反応。そりゃ告白の行列もできるだろう。
 だけど本当にこれは、立ち入るもなにもない話だった。僕にはテレビでよくあるような、トラウマのようなものはない。ただ、ちょっとした疑問や違和感があるだけだ。どうせ中学や高校で誰かと付き合ったところで、そんなものは長続きしないだろう? という疑問。なのになにをそんなに大袈裟に言う必要があるんだろう? こんなガキみたいな年齢で、愛だの恋だの騒いだって、そんなのは所詮たわごとで、三か月〜半年もすればそれは、別の相手に言ってるような言葉なのだ。でもなら、真剣に付き合うっていうのはいったい、どういうことだろう? せめて三か月くらいは恋してるんだと口に出して言うことが、真剣に付き合うっていうことなのだろうか? それどころか、かすかな記憶の中の母親は僕に、「あなたとパパのことが大好きだからね」といつも言っていた。だけど結局のところはあっさり他の男と──いや、この話の展開の仕方だと、トラウマがあるように見えるかな? 
 それはまずい。とてもまずい。
 でもとにかく、僕は疑問を持っている。その疑問はごく普通の、当たり前のものだと思う。だからハタからは僕が女の子と真剣に付き合っていないように見えるのかもしれないが、僕からしたら、僕がやっていることと、他の奴らがやっていることに違いがないように思える。少なくとも、どうせどいつもこいつも三か月くらいしか「好きだ」と言っていない結果から見れば。
 いやそもそも人間という生き物は、自分の命を犠牲してもいいと思えるほどに、他者を愛すことなんてできないんじゃないだろうか? 少なくとも僕はそうだ。こんなに性格の良さそうな、千雪だってきっとそうだと思う。他者のために自分を犠牲にするなんて、とても無理だ。
 でもそれが普通のことだし、それが真実だと、僕はずっと、そう思っていた。
 
 その、転校生がくるまでは。
 
 教室の扉が開く。
 担任の狩野が入ってくる。
「はい静かに。今日はホームルームを始める前に、ちょっと話がある」
 おそらく、転校生の話だ。
 千雪が、ほらねとばかりにこちらを見てくるので、僕は適当にうなずく。
「このクラスに新しい仲間が入ることになった。もう一学期も終わるこんな時期だが、みんな仲良くするように」
 そう説明してから狩野は扉のほうへと目くばせする。すると教室に一人の少女が入ってくる。入ってきただけで、教室がざわつき、空気が変わったのがわかった。
 その少女が、美人だったからだ。
 ほどいたら腰まで届きそうな、二つにくくられた茜色の髪。白い肌に、華奢な体。千雪より胸はないな、なんて馬鹿なことを僕は考える。でもそれでも彼女は、ひどく魅力的だった。一番の特徴は、目だ。まるでクラス全体を睥睨するような、目。見下しているのとも、冷めているとも違う。ただ全員を値踏みしているような目でこちらを見ていて。にもかかわらず、彼女の瞳には凛と透き通るような印象があった。
「じゃ、自己紹介を」
 狩野にうながされて、少女は答える。
「未見 葵音(みみあおね)です。よろしく」
 声は見た目の印象よりも高かった。しかし、自己紹介はそれだけ。しばらく狩野が未見の次の言葉を待ち、どうやらなにもないとわかると「みんな仲良くするように」とだけ言って、ホームルームを始めた。
 未見の席は、窓ぎわの一番後ろになった。クラスの奴ら全員が彼女に興味津々で視線を送るが、彼女はそれを無視して、まるで馬鹿どもには興味ないと言わんばかりに窓の外へと目をやる。いきなりその態度はまずいだろう、と、僕は思うが、案の定、周りで女子たちのひそひそ声がする。
「なにあれ」
「感じわるーい」
 男子たちの声がする。
「でもかわいいよな」
「なんでこんな時期に転校してきたのかね?」
 また女子が答える。
「いじめとか?」
「あは、ありそー。あの態度じゃねー」
 そしてそれで、終わりだった。
 最後の言葉は、クラスの女子たちの中では一番権力を握っている、樋口彩が言ったから。その一言で、あっさりすべてが決まってしまった。クラス全体にほんの一瞬だけ、緊張したような雰囲気が広がる。教室中が静まり返る。担任の狩野は気づいていないが、生徒たちはそういうことに敏感に反応する。
 いじめが始まるのだ。
 いや、そもそもこのクラスには最初からいじめがあった。窓ぎわの一番後ろの席があいていたのは、いじめで学校にこなくなってしまって、つい最近退学した女の子がいたからだ。
 樋口彩(ひぐちあや)のたった一言で、クラスの男子たちも、女子たちも、未見のほうを見るのをやめてしまう。未見はきっと、なにが起きたのかすら気づいていないだろう。だが、明確になにもかもが変わった。このクラスでこれからなにが起きるのか、どうなっていくのか、すべてが変わってしまった。少なくとも未見は、このクラスでは誰とも友達になれない。
 そしてそんな未見を、僕はぼんやり見つめていた。机に肘を突き、手に頬を乗せて、彼女の綺麗な横顔を見つめる。つまらなそうな瞳を見つめる。彼女の瞳が見ている先を見つめる。
 彼女が見やる向こうの景色は真っ青で、夏らしく積雲が大きく広がっている。でも、あるのはそれだけだ。ただ雲があるだけ。そして彼女は、クラスの連中よりも、そのただの雲のほうが価値があるとばかりに、清々しいほど周囲に注意を払わない。
 それを僕は見つめる。未見の横顔を見つめる。未見が見ている雲を見つめる。
 すると背中を千雪が引っ張る。「もぉ」という声がする。でも、僕は振り返らない。
「流韻」
「…………」
「またそれなの?」
「…………」
「だめだって。樋口さんの言葉聞いたでしょ?」
 千雪は小声で言ってくる。
「流韻ってば」
「…………」
「流韻!」
 僕はそれに、答えた。
「なあ千雪。あれ、ちょっとおかしくない?」
「え?」
「雲だよ。窓の向こうの、雲」
「ん?」
 千雪が顔を出す。窓のほうを見る。
「なにが?」
 と、聞いてくる。
 だが僕は、千雪がなんで、「なにが?」と聞いてきたのかがわからない。だって、あきらかにおかしいのだ。未見が見ている窓の外の景色が。雲の輪郭が。
 夏の雲は輪郭がはっきりしている。陽射しやら上昇気流やらの問題で、なぜかそうなるらしい。だが、いま、窓の外にある雲を縁取る色が、濃い紫色に見えていて。
 いやもちろん、外からの陽射しが強いのに僕はずっと未見のほうを見ていたから、目がおかしくなってしまったのかもしれないが。
 だから僕は確認するように、千雪に聞いた。
「……雲のまわり、紫色に見えない?」
「雲?」
「うん」
「見えないけど」
 千雪が不思議そうに答える。
「あれ、じゃ、やっぱ目のせいかな」
 僕は目を閉じる。ぎゅっと目を閉じる。妙に目の奥が痛む。明るい場所を見つめ過ぎていたせいで、暗闇の中央に、光の残像が浮かぶ。星形のような、十字のような、そんな残像。それから僕は目を開く。雲を見ようとする。だがそこで、
「あっ」
 と僕は声をあげてしまった。
 さっきまであれほど教室のことに興味なさそうにしていた未見が、真っ直ぐこちらを見てつめていたから。なにかを見つけたと言わんばかりにじっと、僕を見つめていたから。おまけにこちらを見ながら、笑みを浮かべる。その笑みの理由はわからない。席はそれほど近くないので、ここから声を出してそれを聞くわけにもいかない。だから僕も、彼女に笑ってみせようとする。が、そこで担任の狩野が言った。
「これでホームルームは終わりだ。気を付けて帰るように。起立」
 一斉に生徒たちが立ち上がる。しかし未見は立ち上がらない。彼女は独り、立ち上がらない。
「流韻」
 後ろの千雪に言われて僕は立ち上がる。その僕を、つまらないものを見るように未見が見上げてから、目を逸らしてしまう。
 教室の一番前の席に座っている挨拶係の佐久間が言う。
「礼」
『みなさん、さようなら』
「解散」
 それでホームルームは解散になった。
 狩野が教室を出ていく。それを見計らうようにして、樋口彩が四人くらい、いつもつるんでいる女子たちを引き連れて未見のほうへと向かう。
「ねぇ転校生さん、私たちと友達にならない?」
「…………」
 未見はやはり無視だった。無言のまま、鞄から教科書のようなものを取り出す。それを机の引き出しに入れる。鞄の蓋を閉じる。そしてその様子を、教室中の生徒たちが、言葉を失ったまま見つめている。
 樋口が表情を険しくてして、言う。
「ちょっと未見さん?」
「…………」
「なによ、それ。もしかして私、馬鹿にされてる?」
 そこでやっと、未見は顔を上げる。やはり澄んだ瞳で樋口の顔を見つめ、
「……馬鹿にするほどあなたに興味ない」
「なっ」
「もういい? 私忙しいんだけど」
 未見が立ち上がる。その場を立ち去ろうとする。しかしその未見の前に樋口が引き連れていた女子四人が立ち塞がる。
「ちょっと、せっかくあたしたちが声かけてやってんのに、なによその態度は」
「感じ悪〜い。どうせあんた、どっかの学校でいじめられて転校してきたんでしょ」
「おかしいと思ったのよね。こんな時期に転校してくるなんて」
「ねーみんなー。こういう暗い奴って、むかつくよねー」
 などと言って、女子たちは笑う。その横で、樋口も笑っている。そしてこれが、毎日続くのだ。学校をやめた女の子は、毎日馬鹿にされて、笑われ続けていた。助けることはできない。仮にやめろよと男子が言ったところで、女子たちはそれを、隠れて続けるから。まあ、いじめなんてのはどれも一緒で、女子も男子も関係ないかもしれないけれど。
 でも、こうなってしまってはもう、助けることができない。
 未見は登校初日に孤立してしまった。
 横で千雪が嫌そうな顔でそれを見ている。樋口と一緒に笑っているのは、クラスでは三分の一くらいのものだ。その生徒達の顔にも薄く、ほんの薄く、恐怖が浮いている。一緒になって笑わないことで、自分が次のターゲットにならないように、一生懸命笑う。
 そしてその、笑う女子たちに囲まれて、未見は無表情のまま、ただ立ち尽くしている。
「こいつびびってるよー」
「ちょっと、いじめてるみたいだからそういう言い方やめよーよ」
「もう、ほらほら、なんか言いなさいよ。まるで私たちがいじめてるみたいでしょー」
 その言葉に、未見は答える。
「どいてくれる?」
 また、爆笑が起こる。
「だから逃げんなって」
「私たち、わざわざ友達になろうって言ってやってんのに、その態度はどうかと思っ……」
 が、その言葉が突然、止まる。いや、止まっただけじゃなく、
「ぐげっ」
 と、まるでカエルを踏み潰したときのような、妙な声に変わる。
 いつの間にか未見の手が、目の前にいた女の首をつかんでいる。そのままぎゅっと力を込める。首を絞められている女子は、
「うあ、げ、があ」
 女の子が出しちゃいけないような苦悶の声を上げる。未見の手を両手で引き離そうと、暴れる。しかし未見の手は外れない。首が締めつけられ続ける。みるみるうちに顔が真っ赤になる。周りを囲んでいた女子たちはなにもできない。あまりに突然のことに、なにもできない。いじめてたはずの相手が、突然無表情のまま首を絞めてくるだなんて思っていなかったから、まるで反応できないでいる。
 未見は顔を、樋口のほうへと向けて言った。
 薄く、笑って、
「私、どいてって言ったでしょう」
 そう言った。
 それに樋口は気押されて、怯えるように一歩、下がった。
 未見は首から手を放す。床に女子が「がはがは」咳をしながらくずおれる。未見はそれを、見もしない。
「用はこれだけ? それなら私は帰るけど」
 女子たちから返事はない。しかし未見は気にした様子もなく、その場を去ってしまう。
「…………」
 そしてもう、誰もなにも言わなかった。
 いや、それ以降、誰も未見に話し掛けなくなってしまった。樋口たちが無視しろと言って回ったのか、それとも未見のほうが誰とも話すつもりがなかったのか。たぶん、その両方だと思う。誰もがまるで、腫れ物に触るかのように未見を扱い──いや、触りもしなかったからこの表現はおかしいかもしれないけれど──だけどとにかく、彼女はこの学校で、孤立した。
 授業中も、休み時間も、彼女は誰とも喋らない。ただ、一番後ろの窓ぎわの席で、窓の外を。その空に浮かぶ雲を、ぼんやり見つめ続けている。終業式がくるまでの数日、彼女はずっと、外ばかりを見ていて。
 そして僕はその、雲を見ている彼女ばかりを見ていた。
 そしてあっさり、一学期は終わる。
 夏休みに突入する。
 千雪には結局彼氏はできなかったし、僕も独りのままだった。
 未見に至っては、友達すらいない。
 いや、別に夏休みになったところで、普通は特別なことなんてなにも起きないのだ。ありがちなことが、ありがちなくらいの確率で起きるだけ。
 だけど僕はその夏に、未見葵音と話すようになった。
 初めて言葉を交わしたのは、八月も中ごろになってからのことだった。


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この続きは、8月14日夏コミにて発売の
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